てんしのひとみ | Best Production | ||
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●将とは智、信、仁、勇、厳なり
孫子は将の条件として、次の五項目をあげている。
智―――頭の働き
信―――人から信頼されること
仁―――人間味のあること
勇―――勇気
厳―――厳しさ
孫子はまた、逆に将が避けなければならないこととして、次の五項目をあげている。
必死―――必死になりすぎると心のゆとりを失い、冷静な判断が出来なくなり、体制を見誤る。
必生―――生きることに執着しすぎると臆病になって卑怯な行動をし、挙げ句の果てに作戦を誤ったり、捕虜になったりしてしまう。
忿速―――いらだつこと。怒りっぽくなり、敵からはもちろんのこと、部下からも足元を見透かされてしまう。
廉潔―――潔癖なこと。潔癖すぎると面子にこだわり、恥とか評判とかを気にしすぎて、実を取ることを忘れる。
愛民―――民を愛しすぎること。人情家は危ない。部下に同情しすぎて、肝心なことにも厳しくなれない。
古来、兵法では将の条件についてさまざまな意見がある。
紀元前三世紀、秦の始皇帝に仕えた尉繚の兵法書といわれる『尉繚子』は、将の条件を三つ挙げている。
第一に周囲の状況に引きずられることなく、主体性を持つこと。
第二に寛大で感情的にならないこと。
第三に清廉で私欲を持たないこと。
同書はまた、逆に将の欠格事項として次の三つをあげる。
第一に精神の平衡力を欠くこと。
第二に正確な観察力を持たないこと。
第三に人の意見に耳を傾ける稚量を持たないこと。
そして「人を率いるは難し」といっているのである。
●君子は器ならず
古代の中国でいう「君子」には二つの意味があった。
一つは為政者である。いわば人民の上に立つ階層の人々である。
もう一つは、人格のすぐれた人々という意味である。これは、人の上に立つものは、人格的にもすぐれていなければいけないということから、意味が拡大されたわけだ。
例えば『論語』には、この二つの意味の君子が混用されている。
ここでいう“君子は器ならず”の君子は前者の意味である。「器」は道具である。器は、特定の機能を果たす為の手段として作られたものだ。
上に立つものは、道具を使う立場にあるのであって、道具ではないというのである。
当時の社会と今日の民主主義社会では根底が違い、人の上に立つとか下に隷属するかということではないが、この言葉はマネージメントの一つのあり方とを示している。
上下関係ではないが、今日の経営に置き換えると、君子は「マネージャー」、器は「スペシャリスト」ということが出来る。
マネージャーは特定の専門を持つのでなく、専門を持った人々が仕事しやすいようにマネージメントするのが任務であって、自分が直接手を下すのではない。
「君子」の中でも、器用な人は、とかく「器」の機能に愛着を持ち、その機能を果たそうとする。それでは「君子」としての役割を充分果たせないのである。
この言葉と関連して、『論語』には孔子と弟子の子貢が交わした問答が載っている。
孔子が若い子賤のことを、
「あれこそ君子だ」
と言った。孔子の門下で秀才といわれる子貢はこれを聞いて言った。
「先生、どうかわたしのことをご批判願います」
自分も君子だと言われたかったのであろう。すると孔子は答えた。
「おまえは器だな」
「器、といいますと」
「そうだな、瑚lだよ」
瑚lとは祭器の一種であって、宗廟に祀るアワビやキビを盛る容器である。玉で飾ってあり、器としては最高の器である。
つまり孔子は、子貢を君子ではなく器だと決めつけているが、器の中では最高のものだと言っているのである。相当な皮肉屋と言わなければなるまい。
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●宰相は細事を親らせず
漢の宣帝の時宰相だった丙吉が外出しているとき、町で喧嘩をしているものがいた。だが、丙吉は素知らぬ顔で通り過ぎた。
なお進んでいくと、牛を曳いてくる農民がいた。
丙吉は尋ねた。
「この牛は、何里ぐらい曳いてきたのか」
あるものが、この二つの件について丙吉にただした。
「喧嘩には素知らぬ顔で通り過ぎ、牛を曳いた農民には何里歩いてきたか尋ねましたね。これはどういう訳ですか」
丙吉は答えた。
「宰相は細かいことまでいちいち口を出すべきではない。町の喧嘩は警察の管轄だから、わたしは口を出さなかったのだ。一方、あの牛はあえいでいた。遠方からきたのならあえいでいても不思議はないが、近くから来たのにあえいでいるとなると、これは天候の異常である。天候の異常で農作に影響があるとなると、これは宰相の仕事である。だから何里歩いてきたか尋ねたのだ」
確かに立場によって仕事は違うのである。それを承知していないと、何にでも口を出して効果はないということになってしまう。
漢の文帝の時のことである。文帝が会議の席で右丞相の周勃に、一年間の全国の裁判件数を尋ねたが、周勃は答えられなかった。ついで文帝は国庫収入について尋ねたが、これも答えられず、周勃は恐縮するばかりであった。
そこで文帝は左丞相の陳平に尋ねると、陳平はいった。
「裁判については司法長官に、国庫収入については財務長官にお尋ね下さい。それぞれの件にはそれぞれの主幹者がおります」
この陳平の答えは、次のような名言として知られている。
―――陛下。もし決獄を問わんには廷尉に責めよ。もし銭穀を問わんには治粟内史に責めよ。
「では、その方は何をするのか」
文帝が重ねて聞くと、陳平はこう答えた。
「上は天子を補佐して四時の推移を順調ならしめ、下は地の恵みを豊にし、外は四方の蛮族を鎮撫し、内は万民を治め、諸官にそれぞれ職務を全うさせることにあります」
●兵に将たること能わざるもよく将に将たり
秦が滅んだあと、劉邦と項羽が天下を争い、劉邦が勝って漢帝国を樹立し、高祖となるのだが、この勝利に軍事面で大きな功績のあったのは将軍の韓信である。彼は別働隊として項羽の背後で活躍し、最後の決戦である垓下の戦いも、韓信の働きによって劉邦は勝ちをおさめることが出来たのである。
それほどの韓信であり、漢帝国が成立したあとは楚王に任命されたが、劉邦から疑われて逮捕されたあげく、淮陰侯に格下げされてしまった。しかし、なんと言っても項羽との戦いで苦労を共にした仲である。たまたま諸将の品定めで話しが弾み、高祖が尋ねた。
「わしにはどのくらいの兵士を指揮する能力があると思うか」
「せいぜい十万人程度でしょう」
韓信がこう答えると、高祖は言った。
「では、そなたはどのくらいの兵士を指揮できるのかな」
「はい、私は、いくらでも多ければ多いほどうまく指揮できます」
高祖は笑いながら、
「それなら何でわしに逮捕されたのか」
それに対する韓信の答えが、この名言のもとである。
「陛下は、“兵に将たる力”はありませんが、“将に将たる力”をお持ちです。わたしが逮捕されたのはそのためです。陛下のこの能力は天成のものでありましょう」
第一線のリーダーシップと全組織のリーダーシップとはおのずからにして違う。それぞれの段階に応じて、それぞれのリーダーシップがあるのである。卑近な例だが、課長の時と部長になってからとでは同じであってはならないのである。
これより先、漢帝国が成立したばかりの頃、高祖が諸将と酒を飲んでいたときのことだ。高祖が一同に尋ねた。
「項羽が破れ、わたしに天下が取れたのは、どういう訳だと思うか」
みなそれぞれの考えを述べたが、高祖はこう述懐した。
「戦略を練るという能力ではわしは張良に及ばない。内政を整え軍需をまかなうという能力ではわしは蕭何におよばない。兵を指揮して戦うという能力ではわしは韓信に及ばない。この三人は誠に傑物である。わしはこの傑物を使いこなすことが出来た。これがわしの成功した原因だ。これに反して項羽は、ただ1人の范増(項羽の軍師)すら使いこなすことが出来なかった。これが項羽の敗因である」
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●将、軍にありては君命も受けざるところあり
兵法家として名高い孫子が、呉王闔閭に謁見した。おうはそなた著した兵法書は見せてもらったが、理論ばかりではなく、用兵の実際を見せてもらえないだろうか」と所望した。
孫子は承知し、宮中の美女百八十人を借りて広場に整列させた。そしてそれを二隊に分け、王のお気に入りの宮女を隊長に任命し、一同には武器の戟を持たせてから、説明した。
「わたしが“前”と言ったら胸をみよ。“左”と言ったら左手を、“右”と言ったら右手をみよ。そして“後ろ”と言ったら背を振り返るのだ」
こうして決まりを申し渡すと、さらに説明を繰り返し、そのあとで軍鼓を打ち鳴らして、号令をかけた。
「右!」
だが、女たちはゲラゲラ笑うだけである。
「説明が不明確で、号令が徹底しないのは、主将たるわたしの責任だ」
孫子は改めて説明を繰り返してから、号令をかけた。
「右!」
だが、女たちはやはり笑うだけである。すると孫子は言った。
「決まりがはっきりせず、号令が徹底しないのは、主将の責任であった。しかし、決まりがはっきりしているのに号令が守れないのは、直接の指揮をとる隊長の責任である」
そして厳しく申し渡した。
「二人の隊長を斬る!」
台の上で見物していた王は驚いて、伝令を孫子のもとに使わして伝えた。
「わたしはこの二人の女たちがいないと、食事もうまくないほどなのだ。どうか、こらえてやってくれ」
孫子は答えた。
「仮にも、わたしは王命を受けて将となっているのです。将たるものは戦場では最高の権限を持ち、たとえ君命であっても従わない場合があるのです」
そして二人の隊長を切り捨て、次の隊長を任命した。
その上で再び軍鼓を鳴らし、号令をかけた。女たちは、“右”と言えば右を、“左”と言えば左を向き“ひざまずけ”と言えばひざまずき、整然と号令通り動いて、声一つ立てるものもいない。闔閭はガックリしたが、感心し、孫子を呉の将軍に迎えた。
部下に権限を与えた以上、上司はよけいな口出しをするなという名言である。
●一沐に三たび髪を捉み一飯に三たび哺を吐く
「捉髪吐哺」もしくは「一沐三捉一飯三吐の教え」といわれるものである。
指導者は人と会うことに労を惜しまず、万難を排しても進んで人に会うことを仕事にしろという意味だ。
この言葉には、こんな由来がある。
周王朝を創始した武王の弟周公は、よく武王を補佐して新王朝の基礎を固めた名宰相である。この周公は魯(今の山東省)を領地としていたが、自分は都での政務がある為、息子の伯禽を自分の代理として派遣した。
その出発に際して、周公は伯禽にこう諭したのである。
「わたしは天子の弟であり、けっして低い身分とは言えない。それでも、わたしは謙虚に人と接しているつもりだ。人が訪ねてくれば、入浴中だろうと何度でも中断し髪をしぼっては(捉髪)人に会い、食事中であろうと何度でも中断し口中のものを吐き出しては(吐哺)人に会うほど、人材を大切にしている。
これほどまでにしてもなお、大事な人材を失うのではないかと心配なのだ。
おまえは魯に行ったら謙虚な態度に終始し、けっして領主だからといって傲慢な態度をとってはならぬぞ」
忙しいと、つい人に会うのが億劫になり、面談を断ったり、居留守を使ったりする。また会うにしても、嫌々義務的に会うことが多い。これではせっかくあっても、相手に不快な思いをさせるだけである。
どんな人間であろうと、人は無限の可能性を秘めている。会うことによって、それを引き出せないとは限らない。
出会いは重要である。
「一期一会」という。
安土桃山時代に著された作動の心得にある言葉で、茶会の出会いはその時その時に、一生に一度のものであり、大切にしなければならないということだ。
これは茶会だけでなく、あらゆる場合の出会いに共通する。
特にリーダーたるものは、だれに会うにも「一期一会」の気持ちでいきたいものだ。とかく、忙しいリーダーともなれば、人に会うことになれてしまい、おろそかになりがちである。戒めたいものだ。
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●世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり
伯楽というのは古代中国でもともと星の名前で、天馬の神といった。それから転じて馬を見分ける名人のこととなった。近年は言わなくなったが、昔、日本で馬を扱う商人を「ばくろう」といったのはこれが由来である。
唐の時代に学者であり、文章家であった韓愈の言葉である。
この名言と並んで、韓愈はこうも言っている。
―――千里の馬は常にあれど、伯楽は常にあらず。
「一日に千里を走るような名馬はどこにでもいる。しかし馬の目利きが出来る者はそういない。つまり、人材はどこに出もいるが、それを見いだしてくれる者はやたらにいない」
といいうのだ。
この世に伯楽がいるからこそ、名馬が出るのである。
どんなにすぐれた人でも、見いだしてくれる人がいなければ頭角を現すことは出来ない。成功者の多くが、そのきっかけを作ってくれた恩人を持っていることからして、これは自明の理である。
人材を見いだすには、まず人を大切にすることが必要である。そうでなければ人は集まってこない。昔から、中国の宰相の大きな任務の一つは、人材を見いだしそれを天子に推薦することであった。そこでその屋敷に多くの人士を集め、役に立つ日に備えていたのだった。これを「食客」という。
戦国時代の末期、斉の王族で、宰相だった孟賞君という人物がいた。孟賞君はよく人を遇することで天下にその名を知られ、うわさを聞いて諸国から人材がその屋敷に集まり、その数は数千人といわれたほどである。
孟賞君は新しい食客が来ると、対面するときに、必ず親兄弟のことを訪ねた。その時、衝立の陰に書記を控えさせ、詳細に記録させた。そして、対面後、直ちにその親兄弟へ使いを出し、贈り物をした。
食客が感激したことは言うまでもない。
こうした心遣いがあって、天下の優秀な人材がますますかれのもとに集まってきたのである。余談だが、今の中国でも「伯楽」の名はよく知られている。例えば「幹部は伯楽であらねばならない」などという。これは幹部たる者は、部下の評価を的確に行うべきだという意味なのである。
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●法の行なわれざるは、上よりこれを犯せばなり
戦国時代のことだ。
商鞅が宰相となり、革新政治を断行した。それまで認められていた貴族の特権に制限を加え、法律を制定して、行政組織を整備し、土地改革を行うなど、新しい国造りをしようというのである。
従来の政治は占いや、君主貴族の意のままに行われており、法や規定などというものはなかったのだ。
たまたま王子のひとりが法を犯した。
商鞅は王に進言した。
「人民が法を守らないのは上に立つものが法を守らないからです。もし、わが君が断固として法を実施されようとお考えでしたら、まず王子を罰しなければなりません」
しかし、当時とすれば王子を処罰することは出来ない。そこで、身代わりとして王子の侍従長を罰した。それでも画期的なことで、それ以来法律は守られるようになり、大いに治世の実があった。
この商鞅は、法というものを守らせる為にたいそう苦労し、こんなことまでしたと伝えられている。
まず新しい法を公布する前に、国都の南門のそばに大きな丸太を立てかけ、
「この丸太を北門に移したものに十金を与える」
と告示した。だが、だれも信用する者はいない。そこで賞金を五十金としたところ、ある男が半信半疑で丸太を運んだ。
商鞅は告示通り、この男に五十金を与えた。その上で新法を公布したところ、予想通り実効をあげたのだった。魏の地方長官だった呉起にもこれと似た逸話がある。
秦は商鞅以後、国力が次第に充実し、始皇帝の大になって天下を統一するのである。なお、商鞅の言葉は次のようにも伝えられている。意味は同じである。
―――法の行われざるは貴戚(王の親族)よりす。
時代は下がるが、宋代の蘇轍が皇帝に奉った書にこうある。
―――法を賤に行いて貴に屈すれば、天下はまさに服さざらん。
下には法を厳しく適用し、上には摘要をためらうようでは、人々は従わなくなるだろう。
●言うところわたしならば王者は私を受けず
「ここだけの話しですがね」という話しが、ここだけであったためしはない。
人の上に立つ者は、この種のひそひそ話を警戒する必要がある。公私の別をはっきりさせ、公的な話しと私的な話しとを混同してはならないという戒めである。
もちろん、生身の人間だから、ここまで厳密に区別することは難しいが、少なくとも、その話しが私的なものか、公的な性格を持つものかということをよく考え、それに応じた受け取り方をしなければならないのだ。
漢帝国の初期、高祖の亡き後皇后の呂氏が太后となって実権を握り、天下の政治を弄断した。この呂太后が死んだあと、呂氏は一掃され、重臣たちは後継の天子で代王を推薦した。代王は迷ったが、招きに応じて上京した。
その時、都の郊外に出迎えた重臣の周勃が進み出て行った。
「なにとぞ、お人払いを」
その時、代王の母の弟の宋昌がそばから口を出したのがこの言葉である。
その前に「言うところ公ならばこれを言い」という一文があり、通して読むとわかりやすい。
「公のことなら公然というがいい。人の上に立つものは、ひそひそ話は聞かない」
宋昌にすれば、重臣たちの真意がつかめなかったので、代王を天子に迎えることをみんなの前で明らかにさせる為にこう言ったのだが、この故事から離れて、後生この言葉が一人歩きし、公私の別を明らかにするという意味で使われるようになったのである。
ものしりコラム
【完 璧】 完全無欠で、全く傷がないという意味である。よく「完壁」と書かれることがあるが、これは間違いである。「璧」は「壁」ではなく、玉石を薄く切って環状にしたもので、古代中国で珍重された宝物である。 戦国時代、趙の恵文王が「和氏の璧」という名玉を手に入れた。秦の昭王がこれを聞き、十五の町と交換してほしいと言ってきた。秦は強大で断るわけにはいかないが、下手をすれば玉を取り上げられるだけである。 協議の結果、宦官長の食客である藺相如が使者となり、璧を持って秦の都に赴いた。そして、秦の悪巧みを暴いて一歩もゆずらず、首尾よく璧を全うして帰国した。 この故事から「完璧」という言葉が生まれたのである。 |
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●人生の患は人を信ずるにあり
「君主は臣下を信じてはいけない。臣下を信ずれば、患がおきる」
古代中国には、大きく言って二つの意見が真っ向から対立していた。
一つは、人間の性は本来「善」だから、人は信ずべきものだというのである。
もう一つは、人間の性は本来「悪」だから、人を信じてはならないとする。
これは後者の意見であり、韓国の公子だった韓非子の言葉である。秦の始皇帝は韓非子の著述を読んで感激し、この著者に会えれば死んでもよいとまで言い、この論理を基に天下を統一した。韓非子は、当時の諸国が重臣たちに牛耳られ、君主の権限は名ばかりだったことに痛憤し、この理論をあみ出したのである。彼の意見によると、君主と臣下の関係はこうなる。
―――臣・主の利は相ともに異なるものであり。
―――主の利は能ありて官に任ずるにあり。臣の利は能なくも事を得るにあり。
君主の利害は相反するものである。君主にとっては能力のあるものに仕事をさせることが利益だが、臣下にとっては能力がなくても出世することが利益なのだ。
そこで、臣下が勝手なことの出来ないように、法を厳しく整備し、同時にまた、臣下操縦術を駆使することが君主にとって必要だとする。そこで、韓非子の一派を「法家」という。
人情や善意に期待してはならない。災いは愛するものから生ずるのだ。
韓非子はさらに、「君主は自分の好みを臣下の前で明らかにしてはならない」という。腹黒い臣下が君主の好みを知ると、それを利用して君主に取り入ろうとするからである。
韓非子の考え方は極端だが、一面の事実を示している。
ものしりコラム
【逆 鱗】 偉い人を怒らせることを“逆鱗に触れる“という。 この言葉は『韓非子』が出典である。韓非子は君主の立場から臣下を操縦する方と術を説いたが、それだけでなく、逆に臣下の立場からは、君主にどう進言したらもっと効果的で安全かということも説いている。その中で、「竜という動物はおとなしいが、喉の下に大きな鱗が逆に生えており、これに触れると怒ってかみ殺される。君主にもこのような逆鱗があるから、進言するときはそれに触れないようにしなければならない」と言っている。確かに、だれでも、それに触れると激怒するポイントがある。 |
●君の軍に患となる所似のものに三つあり
この言葉には全段がある。すなわち、孫子は「将」の役割を高く評価し、「命令を受けて出陣した以上、戦場では将軍が最高の権限を持ち、たとえ君主の命令でも守らないでよいことがある」と言っているほどだ。そして将軍の役割についてこういう。
―――それ将は国の輔なり、周なれば国必ず強く、輔、隙あれば国必ず弱し。
「将は君主を補佐する重要な存在である。君主と将の関係が密接である国は、きっと強大になるし、反対に、君主と将との関係に隙間がある国は必ず弱体化する」
その上で、君主が自戒すべき事として問題の三点をあげるのである。
一、進むべきでないのに、君主が実情も知らずに進撃命令を下したり、退くべきでないのに退却命令を下したりすること。
二、全軍の内部事情をよく知らないのに、軍事行政に干渉すること。
三、指揮系統を無視して軍令に干渉し、軍内部に不信感を呼び起こすこと。
古代中国の君主との関係は、もちろん現代とはまるで違う。だが、組織の指揮系統を無視したら混乱を生じることは変わらない。社長が部長を無視して課長に直接指示すれば当然、混乱を生じるだろう。組織があり、責任者を任命している以上、そのルールに従って行動すべき事は当然である。
ただし、このことは、何でも任しておいてハンコだけ押せばよいというのではない。実情を無視し、組織系等を混乱させてはならないというのである。
ものしりコラム
【太公望】 今の陜西省西安市の近郊を中心とする「周」という地方政権があった。ある日、当主の文王が狩りに行き、釣りをしている呂尚という老人にあった。話し合ってみると、なかなかの人物である。文王は喜んで言った。 「わが国では太公(父や祖父を敬って言う)の代から、今に聖人がやってきて、わが国はその人の助けを得て興隆するという言い伝えがありました。あなたこそその聖人です」 文王は車に同乗して連れ帰り、師と仰いだ。そして「太公」の代から待ち望んでいた人物だということで、呂尚のことを「太公望」と号したのである。このことから、後世、釣り人のことを太公望というようになったのだ。周ははたして太公望の協力で興隆した。 |
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●水至りて清ければ魚なし。人至りて察すれば徒なし
完全主義では人は寄りつかない。やはりどこか息を抜くところがないとだめなのである。潔癖なのはよいが、現実の人間関係では「清濁併せ呑む」ようなところがないと、周囲はついて行けないのである。だからといって、いい加減に「何でもいい」というのでも困る。その兼ね合いが難しいのである。
このことわざは、後世の政治家によってしばしば引用されてきた。政治の現実で、厳しすぎると、人を失うということなのであろう。
四世紀、東晋の元帝に仕えた郭璞はこういっている。
「水至りて清ければ魚なし。と申します。政治が細かすぎると、民衆が耐えられずに離反するというのは、自然の成り行きといえましょう」
また、十世紀、宋の時代、水運に従事する者たちが官の積み荷をかすめ取っているということが朝廷に報告されたことがある。
その時太宗は言った。
「船頭どもが少しばかりかすめ取ったとしても、あまり目に余るようでない限り追求するな。運搬が円滑に行われればそれでよいのだからな」
すると、そばから宰相の呂蒙正も賛同していった。
「水が澄みすぎると魚がいなくなり、人が賢すぎると仲間が出来ない、と申します。小人どものやることなど見え透いております。大きな度量で対処してこそ、すべてがうまくゆくものです」
『菜根譚』にはこういう言葉がある。
―――地の穢れたるは多く者を生じ、水の清めるは常に魚なし。ゆえに君子はまさに后を含み汚を納るるの量を存すべし。潔を好み独り行うの操りを持すべからず。
「ゴミの土の上には多くの作物が出来、澄んだ水には魚が棲まない。汚れた者でも受け入れるだけの度量があってこそ大人物といえる。自分だけ潔白ぶり、小さな殻に閉じこもるな」
同じ「菜根譚」はまた、こうも言っている。
―――功を建て業を立つるは、多くの虚円の士なり。
―――世に処しては、よろしく俗と同じうすべからず、またよろしく俗と異なるべからず。
成功するのは、たいてい包容力のある人間である。
世渡りは、世間一般の人々と同じであってはならないが、異なってもならない。
●事の理に因るときは、労せずして成る
「物事に内在している原理に沿ってやれば、労せずして目的を達成できる」
もちろん何事でも成功するにはそれなりの努力は必要だし、楽々と成功するようなうまい手がやたらにあるわけはない。しかし、同じ努力するなら、ただ闇雲にやるよりも、無理なく成功した方がよい。このような考え方をすれば、その方法は見つけられるであろう
『韓非子』はその具体例としてこんな寓話をあげている。
ある男が車を引いて太鼓橋にさしかかったが、重くて車が動かない。そこで男は車のかじ棒に腰掛け、いい声で歌い出した。たちまち、聞きつけた人々が集まってきて、引いたり押したりしてくれ、車はたちまち太鼓橋を越えた。
この場合、いくら頼んでも、こうはいかなかったろう。
中国古代の黄河治水にまつわる次のような伝説も、この考え方に似通ったところがある。
堯帝は鯀に治水工事を命じた。鯀は九年の歳月を費やして工事を行ったが洪水は止まず、舜帝の時になり、今度は鯀の子の禹が治水を命じられた。禹は家を外にすること十三年、遂に治水に成功し、さしもの洪水も終結した。やがて禹は舜から位を譲られて天子となり、夏王朝を創設するのである。
失敗した鯀と、成功した禹のやり方には基本的な違いがあった。
鯀の方法は「湮」(ふさぐ)と「障」(さえぎる)であった。つまり堤防を強化し、力ずくで水を防ごうというのである。
これに対して禹の方法は「疎」(とおす)と「導」(みちびく)であった。つまり水勢に逆らって防ぎ止めるのでなく、水の道を造って水を通し、誘導してやるのである。
この伝説は意味深長である。命令や力で強制するのでなく、相手の持っている運動法則を活用し、相手がすすんで動くという状況を作り出すのである。
「理」に従えば労せずに効果をあげるというのは、まさにこのことである。
力ずくでは無駄なエネルギーがいるし、目的を達成したとしても長続きしない。人を動かすのも、仕事をするにも「理」に因らねばならない。
黄河は、歴史に記録されているだけでも千五百回以上の洪水を繰り返している。何事も力ずくでやるのはよくないという中国人の人生哲学は、荒れ狂う黄河と戦い続けた体験とも無縁ではなさそうだ。
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●その身正しからざれば令すといえども行われず
「指導者の行為が正しくなければ、どんなに命令しようとも人々は守らないであろう」という意味である。
『論語』の中の子路篇に出てくる孔子の言葉である。
孔子はこの前に「その身正しければ命せずして行われ」といっている。
説明するまでもないが、下は上を見ている。上がおかしな事をしていたら、いくら厳しく言ってもだれも守る気にならない。
この言葉を座右の銘としたのは、唐の二代目皇帝となった太宗(李世民、在位六二六〜六四九)である。
彼は父の高祖(李淵)を助けて唐王朝を成立させ、唐の治世三百年を築いた人物である。
彼は自分自身でもこう言っていた。
―――天下を安全とせば、必ずまず、その身を正しくすべし。
これは彼が側近に述懐したもので、さらに続けてこういう。
―――いまだ身正しくして影曲がり、上理まりて下乱るるはあらず。
「まっすぐ立っていれば、影も真っ直ぐになることは当然だ。上がきちんとしていれば下がデタラメをするはずはない」
彼は、人民は君主の影だと考えた。
民主主義のもとで、この考え方がそのまま当てはまるとは言えないが、人々が指導者の行動に大きな注目を払っていることに変わりがない。リーダーが不正をはたらいていて、みんなに正義を守れといっても、全く説得力はない。
人々の心を引きつけることが重要なのである。
太宗の秘書役であった張蘊古はいう。
―――人を使うに心を持ってす。
これはかれが太宗に奉った帝王学の中の一句である。人を動かすのは金だけではない。権力だけでもない。もっとも大事なのは相手の心を動かすことである。指導者の行動が、相手の心に大きく反映するのである。
●後生畏るべし
「後世」とは、あとから生まれたもののことだ。先に生まれた「先生」に対する言葉である。後輩という意味もあるし、若い者という意味もある。
「後輩や若い者を馬鹿にしてはいけない」
年配者からすると、若い者や後輩のやることは見ていられないものだ。
特に最近の若い者は目に余る。礼儀、思いやり、生活態度・・・・何をとってみても、これでは困るということがあまりに多い。よく言えば、未曾有の転換期に際し、従来の価値観が適応しなくなった為だろうが、それにしても、ひどすぎるというのが普通の大人たちの一般的な声である。あの連中、一体どういう育ち方をしてこんなになっちゃたんだろう。
とはいうものの、若い者がみんなだめになってしまったわけではない。“後世畏るべし”と思わせる若者が多いのも事実なのである。
もともと昔から、いつの代にも「昔はよかった」という嘆きはついて回った。戦国時代の武将で、秀吉に仕えた福島政則に、こんな言葉がある。
―――古より人の心悪くなる故、言い伝え候ごとし。さあらば、今程は殊のほか悪くあるべきに、またそれほどにもこれなければ、これにて推量あるべし。
これはある人が、
「どうも近頃は世の中がだんだん悪くなります」
と嘆いたのに対して、政則が言った言葉である。
「昔から順々に『どうも近頃は人の心が悪くなった』と言いならわしているが、そうだとすれば、現在はよほどひどくなっているはずだが、どうもそれほどでもないところをみると、推して知るべしではないか」
面白いもので、十五〜六世紀のイタリアの政治家マキャベリにも、同じ趣旨の言葉がある。
「人はよく過去をたたえ、現代のことを悪くいう。その原因は、古い時代のことはよく分からず、しかも直接の関わりがないからだ」
なお、孔子はこの言葉に続けて、こう言っている。
―――いずくんぞ、来者の今に如かざるを知らんや。
どうして、将来が現在に及ばないということが分かるのか。
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●与うるの取りたるを知るは政の宝なり
「取る為には、まず与えることだ。この道理を知るのが政治の重諦である」
春秋時代に、今の山東省にあった斉国の宰相だった管仲の言葉である。彼は、塩や鉄などの管理・専売、財政の均衡化、物価調整、流通政策、税制整備などの各分野について成果を上げて、斉を富強化し、君主の垣公を天下の覇者とした名宰相といわれる。
それまでの政治は、君主の個人的な思いつきと占いによるものであったから、彼は初めて政治に政策を取り入れ、いわば近代化を成し遂げたのである。
従来、政治はもっぱら人民から取り上げるだけで、与えるということは二の次であったのだ。それよりもまず与えることだとしたのは、当時としては進歩的なものであり、画期的なものだったといえるであろう。
現代のマネージメントにしても、まず与えること、それによる成果が上がって初めて受け取ることが出来る。文句を言うよりも、まずマネージャーとしてなすべき事をなすべきだ。
セールスにしても同様であろう。
売ろう売ろうとするよりも、まず顧客に買いたい心を起こさせることである。
ものしりコラム
【先憂後楽】 「後楽園」のなは「先憂後楽」という成句に由来する。宋の宰相氾希文(九八九〜一〇五二)が、湖南省の岳陽にある「岳陽楼」という楼閣をたたえる文章を書いた。その中に次の句がある。 ―――天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ。(先天下之憂而憂、後天下之楽而楽) これは指導者の心得を示したもので、「指導者というものは、世間一般がまだ気のつかない内から、問題点を心配すべきものだ。そして、世間一般が楽しい暮らしが出来るようになってから初めて、自分の生活を良くするべきである」というのである。 ところで、近頃は名園より遊園地の方が有名になるにつれ、「先憂後楽」などという考え方も影が薄れてきた。政治家は国民が心配しだしてからやっと重い腰を上げ、国民の暮らしが楽になるよりも前に、自分の暮らしはしっかりと向上させている。これでは「先楽行憂」といわれても仕方がなかろう。 |
●枉れるを挙げてこれを直きに錯けば民服せず
「ねじ曲がった人間を登用して(枉れるを挙げて)まっとうな人間の上に置けば(これを直きに錯けば)人民は承服しない」
魯の哀公が孔子に、
「どうしたら人民が私の命令に従うようになるのだろうか」
と尋ねた。それに対する孔子の答えが、この言葉である。
この句の前に「直きを挙げてこれを枉れるに錯けば民服す」とある。
これは今も昔も変わらない人事の鉄則である。
人事に関しては、古来いくつかの名言がある。以下に列挙すると。
―――善人を称げて不善人遠ざかる。
伝説上の聖天子といわれた禹の方針で、善人を積極的に登用した結果、自ずと悪人たちは遠ざかっていったというのである。
とにかく道理を通すことが大切なのだ。黙っているようでも、下の人々は上のやることをよく見ているのである。
―――天下道あれば衆人議せず。
筋道の通った政治が行われていれば誰も文句は言わない。そのことを忘れて、衆人があれこれと議論するのをうるさいと感ずるようでは政治家の資格はない。強権政治に道を開いてしまうのである。
―――逸民を挙ぐれば、天下の民、心を帰す。
世に隠れた賢者を登用すれば、天下の人々はそうした政治に心を寄せるものだ。
いずれにしても、施策が信頼性を持つことが大切なのである。
―――信ぜられて後にその民を労す。
まず人民の信頼を得ることだ。あれをしろ、これをしろというのは、その後である。信頼されることなしに命令しても効き目はない。
人事政策は難しい。人脈や年功の作用も大きいが、どんな場合でも「公正」という原則を忘れるべきではなかろう。人事の当否は、当事者だけでなく、全メンバーのやる気を左右する。
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●一聴せざれば愚痴分かれず
みんなががやがやと発言しているのを、漠然と聞いているのでは、確かに分からない。これは『韓非子』が、臣下を操縦する“君主の七術”としてあげたものの一つである。
ひとりずつ意見を聞いてみなければ(一聴せざれば)、馬鹿か利口か分からない(愚痴分かれず)。彼はこんな例をあげている。
斉に三百人の編成による笛の合奏団があった。ある時王が、ひとりずつ笛を吹くように命じたところ、大半が国外に逃げ出したという。吹けない人間が大勢の陰に隠れて吹いているような顔をしていたのである。音楽の実際としてはあり得ないことかもしれないが、寓話としては面白い。これを「一聴法」という。
『韓非子』が挙げた他の六術とは次のようなものである。
観聴法―――臣下の言うことは必ず事実と照合してみること。聞くことと観察との併用である。
例えば、誰かが町中で「虎が出た」と言ってもだれも信じないが、三人がそれぞれ「虎が出た」と言えば信じてしまう。そんな時でも、言葉だけでなく本当に虎が出たかどうか事実を確認すること。
必罰法―――愛情で目をくもらされず、違法を犯したものには必罰の態度で接すること。
賞誉法―――功労者には必ず賞を与え、能力を発揮させること。その前提として信用させることが大事である。魏の地方長官だった呉起は、北門のそばに棒を一本立てかけ、「この棒を南門まで運んだものには褒美をやる」と布告した。信じかねてだれも運ぼうとしなかったが、運んだ者に本当にそれをやった。以来、人々は布告を信用するようになった。
挾知法―――知らない振りをして相手の反応を見ること。例えば韓の昭候は、切った爪の一片を隠しておいて、側近に探させた。昔は君主の詰めは玉体の一部だからやたらに捨てられないのだ。ひとりの側近が自分の爪を切り、「ございました」と差し出した。昭候は、これで嘘つきの側近を見つけた。
倒言法―――燕の宰相の子之は、家の中にいて「今門から外に走り出したのは白い馬ではなかったかな」と嘘のことを尋ねた。臣下のひとりが外に出てみて「はい、白い馬でした」と言った。子之はこれで、いい加減な応対をする臣下を知った。
詭使法―――臣下の思いがけないことを尋ねてみて、その反応によって判断すること。また、たびたび顔を合わせてもわざと相手にしないでいると、臣下は焦ってしまう。その反応の仕方で相手の人物を判断する。
以上、いささか悪知恵に属するが、これも「帝王学」の一つなのである。
●君子は人の美を成し、人の悪を成さず
「君子は部下の長所を伸ばし、短所は大きくしないようにする」
孔子の言葉である。
孔子はこれに続けて「小人はこれに反す」という。つまり小人は、人の長所は抑えつけ、短所はますます大きくなるようにしてしまうというのである。
孔子は弟子の才能を伸ばす為に、細かい心遣いをしている。
弟子の子路があるとき孔子に質問した。
「新しい知識を得たら、やはり、すぐ実践してみるべきでしょうか」
すると孔子は答えた。
「父兄がいるだろう。新しいことを父兄にも相談せずに、すぐ手を出してみるのはどうかね」
別の時、弟子の冉有が同じ趣旨のことを質問した。
「新しいことを耳にしたら、すぐやってみるべきでしょうか」
すると孔子は答えた。
「そうとも。すぐさま実行することだ」
たまたま両方の問答を聞いていた公西華という弟子が質問をぶつけた。
「由(子路のこと)の質問に対して、先生は『まず父兄に相談せよ』と言われました。ところが求(冉有のこと)の同じ質問に、先生は『すぐ実行することだ』と言われました。一体、どちらが本当なのでしょうか」
孔子はこう答えた。
「求は引っ込み思案の性質だから、すぐ実行するようにすすめたのだよ。だが、由は気が早く、また人の仕事にまで手を出すくらい積極的だ。だからなるべく慎重にやるようにすすめたのだ」
相手の性質に応じて、違う指導の仕方をしたのである。
だからといって、孔子は手取り足取りで教育したのではない。やる気のない人間には冷淡すぎるほど冷たかった。
宰予という弟子が、大きな講義の時にさぼって昼寝をしていた。すると孔子は言った。
「腐った木に彫刻はできない。ゴミ土の壁には上塗りできない」
孔子といえば、品のいい君子と思われているが、どうしてなかなか辛辣である。その上、なお孔子はこう言い捨てたのだ。
「こんな者には、いくら言っても無駄なことだ」
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●人を択んで勢いに任ぜしむ
「適当な人物を択んで、全体の勢いをつける核の働きをさせる」
孫子は別のところで「個人の働きよりも、全体の勢いをつける方が重要だ」と言っている。
その一方で、勢いをつける為には、中心になって活動する者が必要だという。それがこの言葉である。
放置しておいて自然に勢いがつくこともある。だが、それでは偶然を期待するだけで戦いの用はなさない。目的を持って勢いを作り出さなければならないのだ。そのためにはどうすればよいか。核となる者を選び出し、その働きで周囲を動かして全員を巻き込んでいけというのである。
こんな実例が『三国志』にある。
西暦二一五年、魏の所領である合肥が、呉軍十万の攻撃を受けた。守備軍は七千でしかない。魏の曹操は守備の守将の中から七百人の精鋭を選りすぐり、呉軍の本陣を急襲してさんざんに暴れ回った。
これで戦いの流れが大きく変わった。守備軍の気勢は上がり、呉軍は大群を擁しながらなすすべもなく、包囲すること十日あまりで空しく引き上げざるを得なかったのである。
曹操が“人を選んで勢いに任ぜしめた”結果である。
ものしりコラム
【脾肉の嘆】 実力を発揮できず、そのチャンスがないことを嘆くという意味でよく使われる。 漢末の混乱の中で、庶民から身を起こした劉備は、めきめきと頭角を現してきたが、有力者の曹操に背いた為、中原を追われて、荊州(今の湖北省)の長官である劉表のところに身を寄せる。自分の根拠地という者を持たない劉備としては、ここで居候生活をしているより仕方がない。そのまま数年が過ぎた。 ある日、劉表の居館を訪れて談話をしていた劉備は、ふと便所に立ったが、座に戻ってくると頬に涙のあとがある。見とがめた劉表が「どうなされたのじゃ」と尋ねた。 「わたしは以前、戦場を馬で駆け回っておりました。そのため脾肉(もも肉)も引き締まっていたのです。ところが今みると、無為の生活を送っている為、ももにブクブクと贅肉が付いてしまった。わたしももう若くはありません。いつまでも、こんな暮らしをしていていいのだろうか。そう思ったらつい悲しくなってしまったのです」 劉備はやがて蜀の皇帝にまでなるのだが、これは不遇時代のエピソードである。 |
●断じて行えば鬼神もこれを避く
迷いを振り切って断行しようとするとき、もしくはためらっている人に決断を迫るような場合に使われる。
なかなか迫力のある言葉だが、その出典は、必ずしも立派な話しではない。
秦の始皇帝が巡幸の途中、沙丘で病死した。
この時随行していたのは、公子で末子の胡亥、丞相の李斯、それに宦官の趙高であった。長子の扶蘇は、しばしば始皇帝に直言する為煙たがられ、辺境の守備隊に追いやられていた。
臨終の始皇帝は、趙高に扶蘇あての勅書を起草させ、都に戻って父の葬儀を行うように命じた。つまり後継者を扶蘇とするということだ。
だが、この勅書がまだ使者に渡されないうちに始皇帝は死去した。
勅書と玉璽は宦官趙高の手元に置かれていた。始皇帝の死を知っている者は胡亥、李斯など数人でしかない。
ここで趙高は悪巧みを起こしたのだ。
彼は勅書を偽造し、自分が寵愛されている末子の胡亥を世継ぎにしようと考えたのである。
趙高はまず胡亥の説得にかかった。
「長男の扶蘇様が皇帝の位につけば、弟君たちは一寸の土地もないことになります」
「それは言うまでもないことだ。父上が決められたことに、われわれ子供が口を挟むべき事ではない」
さすがに胡亥は拒否したが、趙高は説得を続けた。胡亥の気持ちも揺らぎだした。そこで、趙高の強調したのが、この言葉だったのである。
―――断じてあえて行えば、鬼神もこれを避け、のち成功あり。
ついに胡亥は同意してしまう。
ついで趙高は李斯の説得にかかった。李斯も当然反対した。しかし趙高は引っ込まなかった。もともと知識人の李斯は弱いところがある。地面をはいずり回って生きてきたような海千山千の趙高にかかっては手も足も出ない。ついには脅しにまでかかった趙高の説得に李斯も同意してしまう。
こうして扶蘇には自殺を強い、胡亥を世継ぎとするニセの詔勅が発せられたのである。
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●知は決の断なり、疑は事の害なり
決断をすすめる名言である。
「事態を充分に確かめれば決断できるはずだ。それをいたずらに迷っているのは災難の原因に他ならない」という。
前三世紀、混乱の末に秦が滅亡したあと、劉邦と項羽が天下を争う。
その中で、劉邦側について大きな力を発揮したのは名称韓信であった。
彼は、はじめ項羽の下についていたが重用されない為ここを離れ、劉邦の下について将軍の地位を与えられたのである。
項羽と劉邦の戦いは、はじめ項羽の方に分があり、劉邦はいつも守勢に立っていたが、韓信は劉邦の為に別働隊を組織し、項羽の背後で活躍し大きな戦果をあげた。
そんな時、斉の出身でかい通という人物が韓信に進言した。
「あなたには得難い尊貴の相があります」
「それはどういうことか」
「項王(項羽)の威勢は天下にふるっておりますが、その軍は今苦戦に陥り、進に進めない状態です。一方漢王(劉邦)は敗北続きで逃げ回っております。天下の災いはなかなか収束しそうもありません。この時にあたり、両王の運命は、将軍、あなたにかかっているのです。あなたが項王につけば項王が勝ち、あなたが漢王につけば漢王が勝ちます。天下を三分することも不可能ではありません」
かい通は韓信に第三勢力として独立すべきことを説き、こう続けた。
「斉の地にとどまり、趙と燕を従え、空白地帯に進出して、漢(劉邦)、楚(項羽)の調停に乗り出すことです。そうなれば、天下の人身は自ずから斉に帰するでありましょう。ことわざにも、“天の与うるを取らざれば、かえってその咎めを受け、時至るも行わざれば、かえってその殃いを受く”と申します。どうかよくお考え下さい」
だがかんしんは、りゅうほうに背くわけに行かないと断った。
数日後、かい通は再び韓信に進言した。その時に用いたのが標題の名言である。
「知は決の断なり、疑はことの害なり。小さなことにこだわっていれば、大局を見失ってしまいます。わかっていながら断行をためらっていれば、わざわいを招くことになります。一日に千里を走る名馬でも、足踏みしていれば、駑馬がゆっくりと歩いていくのに及びませんぞ」
だが、韓信はなおためらい続けた。結局、韓信はここで劉邦を裏切らず、劉邦はやがて漢帝国を樹立するのだが、そのあかつきに韓信は謀反の罪で粛正されてしまうのだ。
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