てんしのひとみ Best Production
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信念を持って生きる知恵





1.        確固たる信念を貫き通せ

千万人といえども、われ往かん

但し、この言葉の前に「自分にやましいことがなければ」という前提が着いている。これは孟子が弟子の公孫丑と“勇気”について交わした問答が出典である。

公孫丑が訪ねた。

「先生が斉の宰相に就任されれば、斉を天下の王者にすることも不可能ではないと思いますが、実際にそういう地位にお就きになれば、先生でもやはり心は動揺されるでしょうね」

孟子は言下に否定した。

「いや、私は四十歳を過ぎてから、滅多のことでは動揺しなくなった」

「では、斉の勇者といわれた孟賁(もうほん)よりは上ですね」

「動揺しないというのは、決して難しいことではない。私の論的である告子(こくし)などは、もっと若いときから動揺しなくなったようだ」

「いったい、どうすればそうした境地になれるのでしょうか」

孟子は、勇者といわれる人々の例をあげた。

「斉の北宮黝(ほくきゅうゆう)は、相手が誰であろうと侮辱ということを許さなかった。毛筋ほどの侮辱でも、公衆の面前で鞭打たれるほどに感じたという。相手が誰であろうとも、侮辱されれば復讐したものだ」

「相手が強かったらどうですか」

「やはり、昔の斉の勇者といわれた孟施舎(もうししゃ)という人は、こういっている。

“たとい勝つことの出来ない相手でも、のんでかかることだ。自分が勝てると思わないでも、ひるまずに闘うところから勇気が生まれる”とね

 

この辺の考え方は「孫子」の兵法とは正反対だが、孟子は必勝の信念を強調するのである。そうしてこう続ける。

「孔子の門人の曽子は、子襄(しじょう)という弟子に対してこういっている

“私はかつて先生(孔子)から大きな勇気について伺ったことがある。それによれば、もし、自分にやましいことがあれば、たとい相手が身分の低いものであろうとも、ひるんでしまう。これに反して、自分にやましいことがなければ、千万が相手だろうと自分の信念を貫き通す。これが本当の勇気だ”内心の正しさが勇気の源泉なのだよ」

「やましいことの有無ですね」

「そうだ、曽子が内心の正しさを勇気の源泉として重視しているのは、さきの孟施舎の考え方よりもすぐれている」


 

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2.決断すべきは断じて行う

●断ずべくして断ぜれば、かえってその乱を受く

戦国時代の末期、楚の国に春申君(しゅんしんくん)という宰相がいた。

存在は二十年以上に登り、よく治績を上げて楚を安泰に保っていた。その邸宅にはいつも三千人の食客がいたといわれ、人材を大切にしていた。

その1人で、かれの私臣になった梨園(りえん)という男がいた。

梨園には美人の妹がおり、春申君の側室となって妊娠した。

彼女は折を見て春申君に言った。

「王はあなた様を信頼され、政治を任しておられます。けれども、王にはお子がおられません。万一の場合に跡を継がれるのは、王のご兄弟ということになりましょう。そうなりますと、新しい王は前々から身近にいた臣下を重くお用いになるでしょう。

あなた様は、長く今の王に重用され、高い地位についておられました。長い間には、王のご兄弟に礼を失していたことがあるかもしれません。そのご兄弟が位を継がれたら、あなた様の身の上に災いが降りかかるのではないかと、それが心配でございます」

いわれてみると、確かにそうだ。春申君は思い当たることであり、彼はにわかに心配になってきた。梨園の妹はそこでたたみかけるように。重大な陰謀を持ちかけた。

「幸い、今、私は身ごもっております。そのことを知っているものは誰もおりません。どうか、あなた様から、私を王にお奨め下さい。ご信頼しているあなた様からの申し出ですから、王はきっと承知なさり、私をご寵愛(ちょうあい)なさるに違いありません」

思いがけない話しに春申君は息をのんだ。彼女は続ける。

「天のお助けで男の子が生まれれば、あなたのお子が楚の王になるわけでございます。それともこのまま何もなさらずに、王亡き後あなたの地位が危うくなるのをお待ちになりますか」

春申君は遂にこの陰謀を受け入れ、梨園の妹は男の子を産んだ。この子は太子となり、妹は王后に、そして梨園は重く用いられた。これは初めから彼の計画だったのだ。

梨園はさらに秘密を守る為、春申君の暗殺を企てていた。

朱英(しゅえい)という人物がこのからくりを知り、春申君に進言した。梨園の悪計を報告し、先手を打って彼を誅殺(ちゅうさつ)するようにすすめたのだ。だが、春申君は決断せず、そのまま時日を過ごしている内に、王が没し、彼は梨園の手のものによって暗殺されてしまった。

司馬遷は『史記』にこの事件を記録したあと評言を付し、「まさに断ずべくして断ぜれば、かえってその乱をうく」と記している。個室の非道な申し出を退けていれば、この悲運は見なかった、というのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

3.人生は理屈や損得だけではない

●人生意気に感ず

人間は不思議な生き物だ。損得の計算をしてばかりいるかと思うと、何かの折りに、そんなことを抜きにして、「よし!」とばかりやる気を起こすことがある。

また、理屈ばかりこねているかと重うと、何かの弾みに、理屈抜きで、「えいっ!」とばかりやる気を起こすことがある。

それが意気込みである。

これは詩の一句であり、この後に、次の句がある。

―――公明、誰か論ぜん

栄達などは問題でない、というのである。

この詩は唐の諌議(かんぎ)大夫という重職にあった魏徴(ぎちょう)の作である。

彼ははじめ、(ずい)の末の騒乱に際して決起した李密(りみつ)の元で幕僚となり、やがて共に唐王朝を創始した高祖(梨淵(りえん))の下についた。だが、主人の李密は唐に反旗を翻して諜殺されてしまう。

魏徴(ぎちょう)の立場は微妙なものであったが、唐の高祖は彼を信頼し、重要な任務に就けた。山東で強力な地盤を持つ徐世勣(じょせいせき)鎮撫(ちんぶ)に赴かせたのである。

彼は自分を信頼してくれたことに感激し、出発に際して決意のほどをこの詩で表現したのである。

 

ものしりコラム

【桃源郷】

俗世界を離れてゆったりとした仙境のことをいうが、これは四〜五世紀の晋の詩人陶淵明(とうえんめい)の「桃花源の詩並びに記」という作品に基づくものである。

それによると、ある漁師が川を遡り、美しい花が咲く桃の林に入り込んだ。なお船を進めていくと、林が尽き、小さな洞穴があった。

彼はそこで船を捨て、洞穴に入っていったところ、突然、目の前が開け、美しい田園で人々が楽しそうに働いていた。彼らは秦の時代に乱れた世を逃れ、隔絶したこの仙界で暮らしているのだった。

君主もいなければ税金も賦役もない安泰な村である。彼はここで数日を過ごして家に戻った。その後、伝え聞いた者が行こうとしたが、誰も訪ね当てることは出来なかったという。

 

 

 

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4.利益より仁義を大切にせよ

●義を見てせざるは勇なきなり

「えい! ここで一丁やらなけりゃあ、男(もしくは女)がすたる」

というような場合に、昔はよく使われた言葉である。

「義」は「論語」に良く出てくる言葉で、「人間としてやらなければならないこと」「正しい筋道」「正義」など、いろいろな意味に使われているのだ。

こんな言葉もある。

―――利を見ては義を思え。

「利益が目の前にあったら、それが筋道の通ったものかどうかを見定めよ」というのである。

早い話、うまい話にはすぐ飛びつかず、うさんくさくないかよく考えてから手を出せということだ。この心得がないと詐欺師に引っかかったりするのである。

 

「義」は大事なものである。

孔子より一世代後から出た孟子も「義」を特に重視した。

孟子が(りょう)の恵王に謁見(えっけん)した。恵王が、

「先生が遠路はるばるおいで下さったのは、さだめし、我が国に利益となる策をお持ち下さったのでしょうな」

というと、孟子はキッとなって答えている。

「王は何でそのように利益利益とおっしゃるのですか。大事なのは仁義ですぞ」

この孟子にはこんな言葉がある。

―――その義にあらず、その道にあらざれば、これを禄にするに天下を持ってするも顧みず。

 

「義にもとり、道にもとることだったら、天下をくれると行っても取り合わない」

また、「生きたいのは人間の本能だ。だが自分にとっては、義も大事なものである。もし、生と義と、どちらか一つをとらなければならないとしたら、自分は生を捨てて義をとるであろう」

 

「君主が義を重んずれば人民も皆木を重んずるようになる」とも言っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.小さくともトップを目指せ

●むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ

戦国時代の策士として有名な蘇秦(そしん)が使った殺し文句。

「牛後――大きいものの尻になるより、むしろ鶏口――小さくとも頭になった方がいい」ということ。例えば大会社の平社員よりも、小企業でも幹部になった方がいいと言うことだ。

戦国時代、七つの強国が生き残って覇権を争ったが、一番西の辺境に位置する秦が次第に強大となって、他の六国は皆危険を感じた。

そこでこの六国は同盟を結んで秦に対抗した。この政策を「合従」という。「従」はタテと言うことで、六国を南北に貫いて結びつけようと言うのである

この政策を推進したのが蘇秦である。

彼はまず、最も北の(えん)の君主を説得して同意に取り付けた上、運動資金の提供を受けて(ちょう)を訪れ、王を口説いた。趙王もかれの説得を受け入れて、多額の運動資金を提供した。

蘇秦はその足で韓を訪れ、王を説いた。

「貴国は三方を自然の要塞に囲まれています。その土地は九百里平方、兵士は数十万。しかも天下に知られた強い(いしゅみ)、剣を産出します。貴国の兵をこれらの兵器で武装させますならば、1人で百敵に対抗できましょう。それにもかかわらず秦に屈服するのは、国を辱め、天下の物笑いになりましょう。しかも秦は貪欲な国です。屈服すれば領土の割譲を要求してきます。一度それに応ずれば、さらに次の要求をしてきます。

ことわざに、“むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ”とあります。今秦に臣従するのは牛の尻になることです。そんな汚名を着ることは王様の為に恥とするところであります」

感応は憤然としていった。

「不肖とはいえ、秦などに屈服するものか。貴公の策に従おう」

 

ものしりコラム

【五十歩百歩】

梁の恵王が孟子に下問した。

「私は隣国などよりも善政に努めているのに成果が上がらない。なぜだろうか」

孟子は答えた。

「戦いに際し、1人の兵士が五十歩逃げました。そして百歩逃げたものを卑怯者とあざけりました。これしきの善政で隣国よりつとめているとお考えなのは、これと同様です」

どの道変わりがないこと、「五十歩百歩」というのはこれが出典だ。

 

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6.一筋の道を貫いて生きる

●わが道は一をもってこれを貫く

孔子は弟子たちと歓談していた。

その時、孔子が曽子(そうし)に向かってふと呟いた。

「私の歩いてきた道は一筋に貫かれていたのだよ」

曽子はうなずいた。

「はい、そうですね」

孔子はそのまま席を立った。

居合わせた弟子たちは、首をかしげて曽子を取り巻いた。

「どういう意味だったのでしょう。先生がおっしゃったのは・・・・」

曽子は微笑していった。

「先生が歩んでこられたのは、忠恕(ちゅうじょ)と言うことに尽きると言われたのだよ」

 

以上は『論語』にある問答である。

「忠」は誠実、『恕』は思いやりと言うことだ。孔子の生涯はまさしく、誠実そのものであり、他者に対する思いやりに満ちあふれていた。さすがは曽子、詳しく聞かなくても孔子の言おうとしたことが分かっていたのである。

 

何であれ、一筋に歩き続けるというのは容易なことではない。一筋に歩んだ生涯はさわやかなものであり、悔いはなかったことであろう。

もちろん生身の人間である以上、こうはいっても動揺もあれば挫折感を味わったこともあっただろう。

 

やはり弟子たちと歓談しているとき、孔子は、こう呟いたことがある。

「どうも世の中は理想通りに行かないな。いっそのこと、(いかだ)に乗って海外に行ってしまおうかなあ」

この時、孔子はよほど疲れていたのだろう。弟子たちはシュンとした。その様子を見て、孔子は調子を変えて、こう続けた。

「私と一緒に来るのは、そうだな、(ゆう)よ、そなただろうな」

勇というのは()()の名である。子路は正直で正義感に燃えているが、いささか単純で気の身近いところがある、愛すべき人間である。彼は自分が唯一の指名された弟子なので喜んだ。

すると、孔子はからかうように言った。

「だが、由よ。そんな筏の材料をどこから集めてくるかね」

 

孔子はふと漏らした挫折感を、一流のユーモアではぐらかしたのである。

 

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7.曲学阿世を排し、信念に生きる

●衆人見な酔いて、われ独り醒む

孤高の嘆き。戦国時代末期のことである。今の長江の中流流域に広大な版図を持つ楚の国に、屈原(くつげん)という人物がいた。彼は有数の詩人であると共に、国の前途を憂える政治家であり、清廉潔白な人柄であった。国の為に彼はしばしば正論を吐き、国王に諫言(かんげん)した。

王も彼の意見を用い、彼は重用された。

だが、彼を目の仇にする人たちの讒言(ざんげん)にあい、次第に(うと)んじられた彼は、江南の地に追放されてしまった。宮廷の内部は腐敗しきり、もはや正論に(くみ)するものは1人もいなかった。

流される途中、彼が漁師と交わした問答が『史記』に残っている。

憔悴しきって川べりを行く屈原に漁師が声をかけた。

「屈原様ではありませんか。どうしてこんなところへ」

「世の中が濁りきっているのに、私だけが清くあろうとし、人々が皆酔っているのに、私だけが醒めている。だから追放されたのだ。

すると漁師は言った。

「世の流れに身を任せたらどうですか。世の中が濁っていたら、それに従えば良いではありませんか。人々が皆酔っていたら、一緒に飲んで酔えば良いではありませんか。あなたほどの方が、何でそんな追放されるようなことをなさったのですか」

屈原は答える

「だれでも風呂に入って体を洗ったら、サッパリし着物を着ようとするだろう。私は、潔白な身を汚辱(おじょく)にまみれさせたくない。それならいっそのこと川に身を投げ、魚の餌になった方がいいのだ」

 

こうして彼は石を懐中に入れ、汨羅(べきら)の淵(湖南相)に身を投じて死んだ。

 

 

ものしりコラム

(はつ) (ぷん)

この熟語は、『論語』の中の孔子の言葉から出ている。孔子が祖国()で改革の夢を絶たれ、自分の理想を実現する国を求めて流浪の旅を続けていたときのことである。

楚の(しょう)県で知事が弟子の子路に、孔子の人となりを訪ねた。子路はとっさのことで、返事につまり、後でそのことを孔子に言うと、孔子は言った。

「どうして答えなかったかね。“憤りを発して食を忘れ、楽しんで憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ”とな」

“憤りを発し”の言語が「発憤」で、後に「発奮」と言うようになった。

 

 

 

8.武器さえ健在なら巻き返しは可能

●わが舌を視よ。なお在りやいなや

わずかな失敗でガックリしてしまうことがよくある。そんな時に、こんな短い言葉がものを言い、あなたの元気を回復させてくれるだろう。

この名言は、二千数百年前に中国に生きた張儀(ちょうぎ)という男の言葉であるが、まいったときに元気の出る「プラス思考」の例である。

張儀は戦国時代に諸国を股にかけた大策士で、秦の宰相となって「連衡(れんこう)政策」をすすめたことで知られているが、若い内はコネも金もない貧乏士族の部屋住の身分であった。もちろんだれも相手にしてくれない。

そこで彼は、まず鬼谷(きこく)先生について遊説術を学び、諸国遊説の旅に出た。

当時は、結構人材の往来が自由化しており、自分の説をひっさげて諸国を訪ね歩き、手づるを得て有力者に会い、進言する。それで見込みがあれば採用され、一挙にして重要な任務に就くことが出来たのである。

そこで、舌先三寸の遊説術がものを言ったのである。

 

斉の国を訪ねたときのこと、張儀は多くの遊説の士たちと共に宰相の宴会に列席することが出来た。

ところが、運悪く宰相秘蔵の宝石が紛失し、張儀に疑いがかかった。

「張儀は貧しい上に、品行も良くない。宰相の宝石を盗んだのは、張儀のやつに間違いないぞ」

張儀は寄ってたかってとらえられ、五、六百も鞭で打たれるという拷問を受けてしまった。だが彼はどうしても罪を認めず、ようやく釈放された。

 

ほうほうのていで家に戻ると、妻が言った。

「本を読んだり、遊説をした利などしなければ、こんな災難に遭わずにすんだでしょうにねえ」

すると張儀は大きく口を開けて妻に尋ねた。

「俺の舌を視てくれ、まだしたがついているかね」

「ありますよ、ちゃんと」

妻が笑いながら答えると、張儀は言った。

「それなら充分だ」

 

肝心なものが残っていれば心配ないという楽天的な気持ちがあれば、決してへこたれることはないのである。

 

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9.目的の達成には最後のつめが肝心

●百里を行くものは九十里を半ばとす

目的達成が近くなると、とかく油断しがちである。

「ああ、もう達成したも同様だ」

これが危ないのである。最後の詰めのところで気を抜いた為、失敗することは良くある。これはそれを戒めた言葉である。

 

中国の戦国時代、七つの強国は覇権を争った。中でも、最も西の辺境にある秦は思い切った改革政策を断行して以来、国力が強大となり、天下制覇も夢ではなくなってきた。

そこで国王に(おご)りの色が見えてきた。

その時に臣下が(いさ)めた中にこの言葉がある。

「もう九十里まで来たと思って油断せず、まだ半分までしかきていないと思って努力しなければなりません」

というわけである。

 

また、春秋時代のこと。今の蘇州(そしゅう)付近を中心として栄えた()という国があった。

王の闔閭(こうりょ)は隣国の楚を攻めようとしたが、将軍の(そん)()(孫子)が引き止めた。

「まだ充分な国力がついておりません。もう暫くお待ち下さい」

それから五年がたち、王はまた下問(かもん)した。

「今度はどうだろう」

孫子は時期が来たと判断し、「討つべきです」と答えた。

はたして遠征は成功し、呉群は楚の都を陥落させた。これより先、(いん)王朝を滅ぼした周の場合も、最後の詰めを念入りにした為成功しているのである。

 

殷王朝は(ちゅう)王が暴虐の限りを尽くし、天下の民心は離反した。一方、地方政権である周は善政に努めた為、天下の人々は周に期待し、「殷討つべし」という声が盛り上がった。

しかし、周の武王は、「まだ、その時期でなはない、天命というものがある」

それから二年たった。紂(ちゅう)王の呉暴虐はますますひどくなり、人々の不満も遂に爆発寸前になった。

 

ここに至って武王は遂に決断し、殷打倒のアピールをした。

殷はあっけなく滅び去った。

 

呉も周も、九十里まで到達していながら、まだ五十里までしかきていないという気を引き締めて準備を強化した為、一挙に勝負が決着してのである。

 

 

10.絶体絶命の時こそ活路有り

●死を必須れば生き、生を必須れば死す

およそ兵戦の場は()()の地なり、死を必須れば生き、生を必須れば死す。それをよく将たるものは、(ろう)(せん)の中に座し、焼屋(しょうおく)の下に伏するがごとし。(兵法書として『孫子』と並ぶ『呉子』より)

 

「戦場というもは(しかばね)をさらすところ、厳しさの極地である。死ぬ気になってやれば生きることが出来、生きようとすれば、かえって死ぬような羽目になる。すぐれた指導者というものは、いざとなれば水の漏れる船に乗り、焼ける建物の中に寝ているように、必死に心構えを持たなければならない」

 

必死になると強い

『孫子』にこうある

――これを往くところなきに投ずれば、死すもかつ()げず、死いずくんぞ得らざらん。士人力を尽くさん。兵士甚だ陥れば懼れず、往くところなければ固く、入ること深ければ拘、已むを得ざれば闘う。 

 

――帥これを期すれば、高きに登りてその(はしご)を去るがごとく、帥これと深く諸侯の地に入りて、その機を発すれば、船を焼き釜を破り、群羊を()りて往き、駆りて来たるがごとく、()くところを知ることなし。三郡の衆を集め、これを剣に投ず、これ軍の将たるのことなり。

 

「兵士を逃げ場のないところに追いつめれば、必死に闘う。皆命がけで戦うより仕方がないのだ。逃げ場がない適地に入れば入るほど、団結は強まり、戦う以外に道はない。

必要となったら、二階に上げて梯子を外してしまうのだ。敵地に攻め入ったら、船を焼き、釜を壊して生還をあきらめさせるがいい。全軍を絶体絶命の窮地に立たせるのが将たるものの任務である」

というのだ。

 

また、『呉子』には、「敵の帰路を撃て」とある。これは逆に、生きようとすることの弱さを示すものだ。

 

なぜなら、敵は早く帰ろうと浮き足立っており、生還でホッとしている。生きる望みで一杯になっている。もはや規律もなく烏合の衆となっているのだからだという。生きようとしている将兵は弱いのである。

 

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11.時には開き直ることも必要だ

●心頭を滅却すれば火もまた涼し

日本の戦国時代、織田信長の軍勢は甲斐の武田氏を滅ぼしたが、その菩提寺である恵林寺をも攻めて火を放った。

住職の快川(かいせん)和尚は山門の楼上に座り、燃え盛る火の中でこの一句を唱えて覚悟の焼死を遂げたと伝えられている。

ところでこの句は、唐代末の有名な詩人()(ぼく)の子、杜筍(とじゅんかく)の次の詩が出典だという。

 

三伏(さんぷく) 門を閉じて一(のう)(ひら)

兼ねて松竹、房廊に蔭なし

いいずくんぞ禅 必ずしも山水を(もち)いん

心頭を滅却すれば 火も自ら涼し

 

夏の真っ盛り、門を閉じて僧衣を脱いでいる。

建物には木陰もない。

だが諒をとるのに山水は必要ない。

雑念を去り、無念無想の境地に入れば、火も決して熱くは感じないものだ。

 

ここまでは徹底できないにしても、覚悟してしまえば、人間、相当なことが出来る。どうにもならないと思ったときはいっそのこと、この境地で、開き直ってしまえば、かえって切り抜けられるのである。

 

ものしりコラム

(すい) (こう)

詩や文章の字句を練ることを【推敲】という。「どうもまだ推敲が足りない文章で」とか、「よく推敲しなさい」などという言い方をするのだ。

 

これはこんな故事に基づいて出来た言葉である。

唐の時代、賈島(かとう)という人が都大路をロバに乗って行きながら、詩の字句を考えていた。

 

「僧は推す月下の門。はて、この推すよりは、(たた)く方がよいかな。それともやはり推すがよいか」

 

考え込んでいるうちに、うっかり都長官の韓愈(かんゆ)の行列にぶつかってしまった。供の者は、「この無礼者め」と怒ったが、主人の韓愈は賈島(かとう)から訳を聞くと、「それは敲くのほうがよいでしょう」といい、二人はそこで詩を論じ合ったという。



 

 

12.自らに限界の枠を設けるな

●なさざるなり、能わざるにあらざるなり

出来ないというのは自分が勝手に思いこんでいるのであって、実は、しようとしないからだ、ということがよくある。

これは孟子と斉の宣王との問答から生まれた名言である。

斉は、戦国時代に今の山東省にあった大国である。孟子は暫く斉に滞在していたが、王に会って王道を実践すべきことを説いた。その時にこういったのである。

 

「王道を実践するのは難しいと言われるのは、しようとなさらないのであって、出来ないのではありません」

王がたずねた。

「しないというのと、出来ないというのとは、どう違うと言われるのか」

孟子はここぞと力説する。

「秦山を小脇に抱えて北海を飛び越えよと言われて、できないと答える。これは本当に出来ないのです。しかし、目上の人に礼を尽くせと言われて、できないと答える。これはしないのであって、出来ないのではありません。あなたが王道を実践なさらないのは、秦山を小脇に抱えて北海を飛び越える方ではなく、目上に対する礼のほうなのです」

 

結局はやる気があるかないか、意志力の問題だというのである。

 

これと同じような言葉が『論語』にある。

(ぜん)(きゅう)という弟子が、あることで孔子の教えを守れず、弱音を吐いた。

「先生のおっしゃることに反対なのではありません。ただ、私は力不足で出来ないのです」

すると孔子は言った。

「力不足というのなら、途中まではやるが、後が続かないのだ。おまえのはそうではなく、自分で自分の力を限定してしまっているのだよ」

この最後の一句は次のような名言として知られている。

 

なんじは(かぎ)れり。

 

「画る」とは限界を設定することである。

人はやる気になり、自信を持つと、能力以上の力を発揮するものだ。だが、はじめからやる気がなく、自信を持っていないとなると、せっかくの能力も十分発揮されないことになる。

 

自分自身の限界を設けてしまってはならないのである。

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13.王といえども人間に変わりはない

●王侯将相なんぞや種あらんや

秦の始皇帝が没し、二世皇帝が即位した。

だが、世は乱れはじめ、各地で反乱が起きてきた。しかし、秦朝政府は適切な対策を講ずることが出来ないだけでなく、従前通りの徴用と徴発の強行政策を変えなかった。首都(かん)(よう)の宮殿建設、始皇帝陵の造営、国境の警備などに、全国各地からおびただしい人民が労役にかり出されていた。

 

河南農民九百名が国境警備に徴発され、大沢郷というとことまでたどり着いたが、そこで長雨に降り込められてしまった。

日程を計算してみると、どうしても期日通りに目的地に着けそうもない。期日に遅れれば全員、斬罪に処せられる。

世話人をしていた農民の(ちん)(しょう)()(こう)は相談した。

「何とか目的地まで行っても殺される。ここで逃げても殺される。どうせ殺されるなら、いっそのこと一旗揚げてやろうじゃないか」

かれらは、布に「陳勝が王になるだろう」と朱書きし、網で捕れた魚の中に入れた。兵士がこの魚を買って食べようとし、布を見つけて、不思議なことがあるものだと噂した。

 

陳勝と呉広はまた、彼らが野営している傍の祠の中に潜み、「陳勝が王になるだろう」と叫ばさせた。

兵士たちは神のお告げかと恐れおののき、陳勝に注目するようになった。呉広は普段から人々によくしていたので、彼にも人望が集まった。

 

たまたま引率の軍官が酒を飲んで酔ったとき、呉広は彼を徴発した。軍官は怒って呉広を鞭で打ち、剣を引き抜いた。呉広はその剣を奪い、軍官を殺してしまった。そして、驚いている一同に向かっていった。

 

「私たちは、どのみち雨の為に遅れてしまい、到着しても斬罪に処せられる。斬罪から助かったとしても、国境警備で六、七割が戦死するだろう。どうせ死ぬなら、野垂れ死にでなく、大いに名をあげて死のうではないか」

ここで、彼は一段と声を張り上げた。

「王侯将相だ、偉いやつだからといったところで、種に変わりはあるものか」

一同は張り切って叫んだ。

 

「そうだ、そうだ、やろうではないか」

 

こうして彼らは決起し、秦の軍官を駆逐して陳勝は王となったのである。

 

 

 

14.しょせんこの世は矛盾の洪水

(こう)を盗む者は徴せられ、国を(ぬす)む者は侯たり

「1人を殺せば殺人者とされ、万人を殺せば英雄となる」

という皮肉な言葉と同じ趣旨の名言である。悪いやつほどよく眠る。正直者が馬鹿を見る。とかくこの世はままならない。

 

この矛盾について『史記』の著者司馬遷は言うのである。

「五帝のひとり(しゅん)は若いとき、人の為に井戸を掘っていて生き埋めになりそうになった。殷王朝を開いた(とう)王の賢臣伊尹(いいん)は、はじめ湯王に近づく為に料理番に身をやつした。殷の()(てい)の賢臣傅説(ふえつ)は囚人にさせられていた。のちに周の建国の功績のあった太公望()(しょう)はそれまで貧乏暮らしに苦しんでいた。(かん)(ちゅう)は、一時、手枷足枷をはめられていた。孔子は流浪の旅の途中で食料にも困った。

これらの人々はみな儒者のいう仁者である。それでも、こんな苦難に遭っている。

まして普通の人が世渡りをする場合は、なおさらのことである。

 

俗人は、仁義がなんだ、自分に利益を与えてくれる者が有徳の人だ、などという。だから、義人の伯夷(はくい)は餓死するようなことになったのだ。大泥棒の盗跖(とうせき)らは暴虐だったが、仲間の者は彼のことを義の人だという。

 

こうしてみると、まさに、“帯金(鉤)を盗んだ者は処刑され、国を盗((ぬす))んだ者は諸侯になる”のである。悪人でも出世すれば、仁義の人と賞賛されるのだ」

 

上の文章には、歴史的人物が多く登場して分かりにくいが、要するに、この世の中は矛盾だらけだというのである。また、司馬遷はこうもいっている。

――天道 是か非か。

 

「天道とは正しい者なのかどうか」

天道は正しいものという“常識”に真っ向から疑問をぶつけているのである。その理由を彼はこう説明する。

「天道は公平無私であり、いつも善人に味方するというが、はたしてそうか。周の武王の武力行使を諫めた伯夷と叔斉は善人ではなかったのか。彼らは仁を積み、潔い行動をとったが餓死して果てた。孔子が絶賛した高弟の顔回(がんかい)は極貧で食うものも食えず、若死にしてしまった。盗跖という悪党は罪なきひとを殺し、暴虐の限りをつくしたが、天寿を全うした。悪が栄え、善が滅びる例は昔から後を絶たない」

 

この千古の疑問に、だれが明確な答えを出せるであろうか。

 

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15.情報の取捨選択は自分の判断で

●ことごとく書を信ずれば書なきに如かず

「本に書かれていることをすべて正しいと思って信ずるなら、本がないのと同じことだ。自分の意志によって選択しなければ意味がない」

『孟子』のいう「書」はただの本ではなく、儒教の教典で、夏、殷、周の治世を記した『書経』のことだが、この言葉は本一般としてもおかしくない。

 

本は鵜呑みにするのでなく、自分の頭で判断して嫁という警句である。

もちろん、書は素直に読むことが必要だ。書かれていることには虚心に耳を傾けよう。だが、このことは、自分で判断しなくてよいということではない。

 

孟子は、『書経』を絶対視する教条主義を批判したのであった。現実よりも『書経』に書かれていることを金科玉条とする態度を孟子は許せなかったのである。

 

ところで、この書はいろいろ置き換えてみることが出来る。

何事であれ、自分の頭で判断することが大切なのだ。

例えば『書』を情報と置き換えてミラらどうか。

 

――ことごとく情報を信ずれば情報なきにしかず。――

 

昨今、情報の氾濫はすさまじい。

これもすべて信じていたらどうなるか。自分の判断で取捨選択することが必要なのである。さもなければ、情報に振り回され、自分を見失ってしまうであろう。

取捨選択が重要なのだ。

 

ものしりコラム

【道聴塗説】

聞きかじったことをそのまま受け売りすることをいう。これは孔子の次の言葉から出ている。

 

――道に聞きて(みち)に説くは、徳をこれ捨つるなり。

 

「塗」は途である。つまり道で聞いたことを、すぐ途中でおしゃべりするようでは、徳が充実しないというのだ。受け売りと徳の関係はちょっと理解しにくいが、耳から入れてすぐ口に出すのでは、内部で発酵しないのはもちろんのこと、いつまでたっても蓄積にならないのである。聞いたことはじっくり考え、自分のものとしてよく吸収したいものである。

 

 





 

16.目先の損得で、一生を棒にふるな

●魚を嗜むをもっての故に魚を受けず

()の国に公儀休(こうぎきゅう)という人がいた。

学者出身で宰相の地位にまでのぼりつめたが、当時、高官は自分では法を守ることはないのが普通だったのに、公儀休は率先して法を守り、道理に従って行動した。そのため百官もおのずと正しく身を持するようになった。

ある人が公儀級に魚を贈ったが、彼はどうしても受け取らなかった。

「あなた様が魚をお好きだと聞いてお持ちしたのです。どうして受けて下さらないのですか。些細なもので、気になさるほどのものではありません」

客が言うと、公儀休はこう答えた。

「私は魚を嗜みます。だから魚を受け取らないのです。今、私は宰相としての俸禄をいただいており、いくらでも魚を買って食べることが出来ます。ところが、人から魚を頂戴し、それが昂じて賄賂を受け取るようになり、それが問題となって罷免されてしまえば、魚を贈ってくれる人もいなくなり、自分で買うことも出来なくなってしまうでしょう。だから、この魚をいただくわけにはいかないのです」

 

この話はなかなか意味が深い。

収賄を、よく言われるような倫理の問題として捉えているのでなく、損得の計算として捉えているのである。

 

わずかの収賄で一生を棒にふってしまうような例を、私たちは今もよく見聞きする。こういう人は目先のわずかな欲で目がくらむか、不注意によって、大きな計算が出来なくなってしまっているのである。

 

話はそれるが、ある企業の役員を退任した人から、こんな述懐を聞いて面白いと思ったことがある。

「驚いたものだね。退職したら、とたんにお中元やお歳暮がこなくなった。もっとも今にして思えば、お中元やお歳暮がきたからといって、それほど生活の足しになるわけのものでもなかった。何か、それがステータスシンボルとでもあるかのように錯覚していたのさ。むしろ、何かくるのをあてにしているだけ、根性がみみっちく、卑しくなるだけだね」

 

やめて分かった「もらい物哲学」であったわけだ。

 

とにかく、損得は大きく計算する必要がある。

 

目先の計算だけでは、とかく大きな損をするのである。

目先の計算で生きるのはよそう。

 

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17.人間の欲望は無限に増殖する

●食飽かんことを求むるなく、居安らかんことを求むるなし

「贅沢な飲食、豪華な住まい。こういうものを追い求めてはならない」

 

孔子の言葉だが、現代の生活にあまり当てはまらない言葉である。

現代は豊かな消費生活のニーズによって需要が喚起され、その結果、経済が発展し、そしてさらに快適な生活が実現するのであって、あまり激しく禁欲を求めるのは前近代的である。

孔子の時代ならともかく、現代ではこの言葉は死語になっているかのようである。

だがこの辺で、もう一度この言葉をかみしめてみる必要がありそうだ。

 

人間の欲望は無限に増殖する。生活を向上させようという欲望は人間として当然のことであり、健全なものに違いないが、適当な自己規制を加えないととどまることを知らず、人間の心を損なうことになる。

過食が健康を損ね、飽くなきグルメの追求が浪費を生み、収入に見合わない住宅ローンが生活を破滅させる。

そういったここの現象だけでなく、飽くことを知らない欲望追求は有限な資源を食い尽くし、地球を破滅させることに思いをいたそう。

この名言はやはり現代も生きているのである。

 

これに関連して、やはり孔子のこんな言葉がある。

――士、道に志して悪衣亜食を恥ずる者は、いまだ(とも)(はか)るに足らざるなり。

「道の探求を目指しながら、粗衣粗食では肩身が狭いなどと思っているような(やから)とは、語り合う気にもならない」

 

この「道」を、ほかの言葉と置き換えてみると面白い。例えば「文学」や「演劇」と置き換えてみよう。かつての文学青年や演劇青年は、生活は二の次で好きな道に熱中し、粗衣粗食などは決して恥とは思わなかった。

もちろん、今は時代が違う。生活を変えるなというのは非常識である。

だが、どんな分野の仕事であろうが、その道を目指して努力した結果として生活の充実があるのだ。本来の目的を忘れて、「贅沢な生活」を追いかけていたら、本当の目的は達成できないのである。

 

まして見栄から、贅沢な暮らしを念願するというのでは論外である。

 

自分の仕事、自分の人生に自信を持って取り組んでいるならば、「隣の芝生」などは気にならないはずである。

 

 

 

18.貧乏暮らしは恥ではない

●賢なるかな回や。一簟の食、一瓢の飲、陋巷にあり

 孔子が弟子の顔回(がんかい)を評した言葉である

 

一簟(いったん)()(盛り切りの飯)、一瓢(いっぴょう)(いん)(一杯の汁)で満足し、路地裏(陋巷(ろうこう))のあばら屋に住んでいる」

 

そして、後にこう続けている。

――人はその憂いに堪えず。回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や。

 

「並の人間ならクヨクヨするところだが、顔回は自分の信条に生きるという楽しみを通している。えらいものだ、顔回は」

孔子は「賢なるかな回や」という言葉を二度繰り返しており、よほど感心していたことがうかがえる。

顔回は孔子が最も信頼していた弟子であり、人格者であった。だが、その暮らしは弟子の中でも最も貧しかった。彼は、いささかもそれを気にしなかった。訪問する人があっても、恥ずかしいとも思わなかった。

彼は貧乏暮らしを我慢していたのではない。衣食住にそれほど関心がなかったのだ。彼にとっての最大の楽しみは信条に従って生きるということだったのである。

 

うまい食事、立派な住まい、さらに地位や財産、それはだれにとっても望ましいことだろう。だが、人生はそれだけではないことも知らねばなるまい。

『菜根譚』にこうある

――人は名位の楽しみたるを知るも、名なき位なきの楽しみ、もっとも真たるを知らず。人は饑寒(きかん)の憂たるを知りて、()えず、(こご)えざるの憂い、さらに甚だしきを知らず。

 

「人は皆地位や名声を得ることを幸福だと思いこんでいるが、地位も名誉もないことの気楽さに気づこうとしない。人は貧しいことが不幸だと思いこみ、物質的に満ち足りた者の不幸に気づかない」

 

気楽に暮らしたいという気持ちは、聖人孔子にすらあった。

孔子は、弟子たちにそれぞれの楽しみをいわせた。いろいろ立派なことをいう者が多かったが、孔子がもっとも共感したのは、曽ル(そうせき)という弟子の次の言葉であった。

「春もたけなわの頃、こざっぱりとした着物を着て野遊びにゆき、川縁を歩いて岡に上り、風に吹かれて歌をうたいながら戻ってくる、そんな楽しみがしたいものです」

 

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19.自分の評判を気にするな

●人の己を知らざるを(うれ)えず

自分が周囲からどう思われているかというのは気になることだ。そして、さらに「自分は人から理解されていない」と嘆く人も多い。

だが、と孔子はこういうである。

「人が自分を理解してくれないと悩むことはない」

それよりも、もっと気にすべきことがあるとして、孔子はこの言葉の後に続けていう。

 

――己の人を知らざるを(うれ)えよ

 

「自分がはたして他人を理解しているかどうかを気にすべきだ」

というのである。自分の評判を気にするのは、受動的であり消極的である。

人間関係はあくまで相互作用だ。自分が他人を理解してやれば、相手もこちらを理解し評判してくれるのであろう。

もちろん、人の意見には素直に耳を傾けるべきである。まして自分に対する評判は謙虚に聞く必要がある。だが、いたずらに自分の評判を気にするのではあまりに主体性がない。

自分に自信があれば何も恐れることはないのである。孔子は、さらにこうもいっている。

 

――人知らずして(うら)まず、また君子ならずや。

 

「人に認められようが認められまいが気にしない。それが君子というものだ」

これは決して独善的でよいということではない。孔子はその点について、また、このように補っているのである。

 

――己の知られるなきを患えず、知らるるべきをなさんことを求めよ。

 

「自分が人に認めてもらえないことを悩むよりも、認められるだけの仕事をしようと努力した方がいい」

 

自分は認められないとぼやく人に限って、認められるような仕事をしていない。自信のある仕事をしていれば、人の評判などはそれほど気にならないはずである。

 

孔子はこうした問題によほど関心を持っていたらしく、こんなことも言っている。

 

――君子名能なきことを(うれ)う。人の己を知らざるを(うれ)えず。

 

「君子が気にかけるのは自分の能力の有無である。人が知ってくれるかどうかは気にかけない」







 

20.リスクを恐れたら大事は出来ない

●虎穴に入らずんば虎子ず

普通「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず」という言い方で知られている。いうまでもなく、危険を冒すくらいでなければ大きな成果は上げられないということだが、この名言は、紀元前一世紀。後漢の時代の故事に基づく。

後漢王朝の二代目皇帝である明帝の時、匈奴(きょうど)との関係が緊張し、これを牽制する為、政府は西域の経営に乗り出した。その中心人物として活躍したのが、将軍の班超(はんちょう)ある。

かれの父兄と妹は有数の学者で、いずれも中国の歴史に名を残した人物だが、斑超は中国の西域経営に大きな貢献をしたことで特記されている。

彼はまず、善善国を訪れた。

国王は一行を手厚くもてなした。ところが、たまたま時を同じくして匈奴の使者が善善国を訪れた。そのとたんに、国王の斑超らに対する態度は冷ややかな者となった。

このままでは漢の面目は丸つぶれであり、西域経営どころではなくなる。

班長は三十六人の随員を集めていった。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず。こうなったら、夜、彼らを襲って皆殺しにするほかはない。夜ならば、こちらの人数も分からず、彼らは大恐慌をきたすに違いない」

そして匈奴の使者の宿舎に夜襲をかけ、三十数人を皆殺しにした。

この断固たる好意に善善国側も抗議さえせず、匈奴と手を切って漢朝に従うことになったのである。

 

これと類似の言葉が、後年の『三国志』にも出てくる。

魏・蜀と並ぶ三国の一つである呉の将軍(りょ)(もう)の少年時代のことだ。彼は姉の夫で(そん)(さく)の武将であるケ当(とうとう)の元に身を寄せていたが、ケ当が賊の討伐に出撃したとき、無断で部隊についていった。

ケ当が気づいてしかりつけたが、彼は帰ろうとしなかった。

家に戻ったとき、母親が叱ると、呂蒙はいった。

「私は、何とかして家を興し、家名を上げたいのです。いつまでもこのままでいたら、どうなりますか。手柄を立てればきっと道が開けます。虎の穴を(さぐ)らずに、虎の子を手に入れることが出来るでしょうか」

この末尾の言葉は、読み下し文だとこうなる。

 

――虎穴を探らずして、いずくんぞ虎子をえん。『三国志』

 

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21.年齢(とし)を忘れて熱中した男

●老いのまさに至らんとするを知らざるのみ

孔子は五十五歳の時、最高裁判所長官にあたる職をなげうち、諸国流浪の旅に出た。祖国である()の国で政治改革が絶望的となり、彼は自分の理想を実現できる場所を求めて、信頼できる弟子たちと共に旅立ったのである。

はるばる南下して、楚の国の(しょう)という県を訪れたときのことである。

弟子の()()が、たまたま用事があって県の役所を訪れたところ、長官の(しん)諸梁(しょりょう)が訪ねた。

「孔子という方はどういうお人ですか。あなたがた門人衆の目から見て・・・・」

子路はとっさに答えられず、言葉を濁した。

宿舎に戻ってから、子路はこのことを孔子に報告した。

「どうも、とっさのことで答えにつまりました」

頭をかく子路、孔子は微笑しながらいった。

 

――なんじなんぞいわざる。その人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみてはもって憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ、と。

 

「どうして答えなかったのかね。何かに熱中すると食事のことも忘れ、楽しいことがあると心配事も忘れてしまう。そんな具合で、老いの先の短いことも気に止めないような人間です・・・・・とな」

老いは意識せざるを得ない宿命だが、それを吹き飛ばすだけの活力があるというのはすばらしいことである。

ちなみに、孔子のこの十四年に及ぶ流浪の旅は、とても水戸黄門の漫遊のようにはいかない苦難の連続であった。

 

もちろん、孔子の高名は各地にとどろいており、大事にされることもあったが、敬遠されることもあり、さらには政争がらみで死の恐怖にさらされたこともある。

 

また、荒野の中で身動きが取れなくなり、飢えと疲労の為に一行が座り込んでしまったこともある。だが、孔子だけは平然と歌を口ずさんでいた。

 

子路が孔子に食ってかかった。

「君子でも窮することがあるのですね」

孔子はいった。

「もちろんだ。君子だって人間だ。窮することはある。だが、君子は小人のように、窮しても取り乱したりはしない」

 

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